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星界の道~航海中!~

星界の道~航海中!~

【堀上人に富士宗門史を聞く】4

【堀上人に富士宗門史を聞く】4
【永瀬清十郎】

 ○ 砂村問答の永瀬清十郎について………

【堀上人】 尾張は永瀬清十郎の努力ですねええ、尾張全体がそうです。一とう廣いのが尾張ですけれども、清十郎は随分各地へ布教しました。商資は小間物屋で行商に行って、そのついでに布教をやった。けれども後にはですね、小間物屋より布教の方に努力したんでしょう。それをまた、本山の日量上人が、ばかに認めてね、弟子というわけではないけれども、量師がしよりつちゆう使ってね、屋張に布教にやるとか、奥州方面の布教にやるとかされた。ですから、いくぶん布教費でも出したんじやないですか。先には小間物を買って、それ費用にして各地方に布教したということをいっております。量帥がさかんに使うようになってからは、やっぱり量師が旅費を少しくれられたんでしょう。
 それで、量師時代にですね。どうせ布教するのならば、在家で布教するょりも曾侶で布教した方がよいというので、量師のお弟子にしてくれということを願っていたんですけれどもね、まあ、曾侶で布教するよりも、そのままの方が、かえって都合がいいからといって認可しなかった。けれどもその後でですね。久遠院について坊さんになったです。

 ○ 久遠院といいますと。

【堀上人】 久遠院日騰といって、その当時の学頭です。十年も学頭でいて、猊下にならない人は、その人だけです。

 ○ ほとんど明治近くまで、いらっしやったですね。

【堀上人】 安政二年、地震でなくなった。
 まあ、そうですね。寛師以来の大学者ですね。学問の範■が廣くてね、もう二十年も生きてると、相当の書きものを残したんでしょう。五十二歳か三歳で亡くなったんですからね。これからというときに亡くなったですから、書き物が少いですよ。学問はそのかわり、わしの師匠などは、あまりよくいわなかった。学問のしかたが、あまりに広すぎた。その時分にはやった天文学までやっているですからな。いくらか、語学もできたらしいです。

【四十八世、日量上人】

 ○ この日量上人時代におこった尾張の法難は三人がつかまりましたね。それで拷問されたと……

【堀上人】 そう、あの当時の拷問はね。ソロバン責めなんていってね、下に角木をおいて、その上にすわらせて、ひざの上に重い石をおく。血がでてもかまわない。失神して倒れると、それをまた牢屋にかっぎこむ。休養させて、またやる。ずいぶん、ひどいことをやったもんですね。

 ○ そのときに日量上人から、いろいろ激励のお手紙なんかいただいた。

【堀上人】 そうです。量師の隠居時代ですから。ええ。量師も長生きであったですからね。長生きであって、面白い時代があってね。その、隠居さんが、貫主の勢力をしのぐという時代があったですね。ですから因師もそうです。量師もそうです。因師のあともですね、因師のあとの貫主さんが、因師に信用されんというと、何ごともできない時代があったです。五重の塔をつくるときなどは、因師御自身が出しやばらんでもね、貫主さんがあるから、やればいいですけれども、やっぱり、日因上人でなくちやできないような状勢になっていた。
 まあ、長生きといっても、無用に長生きしているだけでなく、門末の僧俗からですね、■依されて信仰されて、その隠居さんが光ったわけです。それで、量師も長生きしてですね、いろいろな当面の用をたされる。隠居さんが出なけりや、仕事ができないというふうになっちやった。

 ○ 日量上人は、この続家中抄と大石寺明細誌を御書きになったのですね。

【堀上人】 ええ、そうです。

 ○ その明細誌のことを賓冊(ほうさつ)というのですね。

【堀上人】 ええ、あれは、明細誌に序文を書いた人がいるんじや。その人が明細誌をほめちぎって、賓冊、即ち立派な賓の文というようにいったんです。それで賓冊なんていう名前になった。その人はごぐ純信な人でね。学者じゃないんですよ。だから批判的のことはできない。ただ、ありがたく奉っただけですね。ですが、内容がごくつまらない。まちがったことばかりであってね。また、あの時分はですね、まちがったことなんかも平気だったですね。ただやたらとありがたく書けばそれでよかった。


 【明細誌の缺點】

 ○ 明細誌も、そういう傾向がある。

【堀上人】 ダメです。もう、ひどく立派なことがまちがっている。それで、明細誌が北山問答にとりあげられてね。わしの師匠も困っちやった。

 ○ ははあ、日志がやってきたときですね。

【堀上人】 ええ、あの日志がせんさく家ですからね。

 ○ 上野の南條氏についても誤がある…

【堀上人】 ええ、南條といってもいくらもある中で、上野の南條家をばかに大きい南條家にしてしまった。鑓倉の北條家のために討死したなんていつている。討死した人なんて一人もありはしない。みんな生きてて、北條家が滅亡したあとで、御開山が亡くなつたけれども、その時分の葬式のお供をしているのじや、みんな。

 ○ ああ、そうですか。

【堀上人】 南條さんの一族は、みんなお供している。

 ○ すると、南條家は錐倉幕府が滅びるときに、大ぜいの人が戦死したということはないんですね。

【堀上人】 そうです。戦死するくらい北條家から用いられておればよかつたですけれどもね。北條家で相手にしないんじゃ。上野村の地頭くらいの者を、相手にしないんじや。上野村の地頭くらいの者を、相手にするねけがない。どんなに南條家が、がんばつたつて、五十人の兵卒をひきいておられんのじや。それも、他に大きな南條がいくつもある。侍大将ぐらいになつて、あんた、千人でも二千人でも部下をひきいている南條がいくらでもある。上野の南條さんは、士分の家来なんていうもの、十人となかつたでしよう。

 ○ よく、日興上人様を上野へお迎えしましたね。

【堀上人】 お迎えしたのは、信仰が厚いからですね。自分の財力以上に身延の大聖人にも、ときどきの贈物をする。また御開山によくつくす。それは、南條その人がつくしたその上にですね、一門を集めてなさつたのじゃ。新田家あたりも親類ですからね日目上人なんかも南條の親類ですから。そんな、一族を集めて、お山につくしたんですよ。今じゃ、新田家が本山の創立につくしたことなんかは誰もいわないけれども、わしは、ときどきいう。むしろ、新田家の方が勢力があったでしよう。

 ○ああ、そうですか。この日量上人のころですね。やはり学問とか、檀林の関係とか、そういうことは、ずつと、同し徳川時代ですから、同じだったわけですか。

【堀上人】 ええ、ほとんど、何一つ異状なしですね。

 ○ 日因上人のように坊をたてたということはあまりないですね。

【堀上人】 量師はないです。坊を建てたというけれどもね、坊さんとしてですね、お山に■くしたために坊をたてて奉公をしたのも、いくらかあるでしよう。けれどもね東京の御信者方が、お山に隠居したのが坊になったのもある。そんなのは五人とか十人とかと生活するような坊は少いんです。
ようやく一人か二人の人がですね。静かに隠居するという坊ばっかりですね。ですから長くは続かない。記録には三十四五ありますけれどもね。その三十四五はいつも並んでいるわけじゃないんじゃ。二百年なら二百年の間に、できたり、こわれたりした坊を総計すれば三十四五というわけだ。本山の塔中の坊さんの生活をかいたものが二三通ありますがね。その中には、あまり表坊のほかはのつていないです。住職がなんであって、そして所化が何人いて、下男が何人いるということを、くわしく書いたのがありますよ。そういうものが残っていますが、裏坊というやつは、ほとんど、のっていないです。どうも建物があったものを書いたというようには、みられない書が多いですね。

 ○ この明細誌には、こまかいことが、いろいろでていますですね。

【堀上人】 ええ、それが、みんな、まちがっているのじゃ。

 ○ 波木井南部六郎嫡男、弥四郎國重なんて……

【堀上人】 そんなバカなことを、いつからか、いってきたんですね。せめて弥四郎という人がね、御開山の本尊分興帳、弟子分帳の中に入っていれば、いくらか頼りになりますがね。御開山の文書の中にも、この弥四郎という名はでていないです。弥四郎というのは、あの時分、ありがちですがねあの時分は、例の、太郎、次郎、三郎が通■であって、その上に弥の宇をつけるとか孫をつけるのが多かった。孫は実際孫ですから。弥はですね、いよいろ(弥)栄えるということから、めでたいという意味から、弥の宇をつけたんですね。

 ○ この明細誌に、全国の寺院がのつているようですけれども、

【堀上人】 ええ。

 ○ これは大体、このくらいはあった・・・

【堀上人】 ええ、あったですね。それはあったですけれども、要法寺関係のものも、のっていましてね。要法寺との関係が、はっきりしないで、習慣で、ここは大石寺の末寺だ、要法寺の末寺だというふうに、勝手になっていたですね。関東方面の要法寺の末寺は、大石寺でもって、支配してもさしつかえない。関西方面の大石寺の末寺は要法寺で支配してもさしつかえないというような、両寺一寺の仲のよい時代でしたから。便宜上、そういうことをやった時代もあったらしいですね。それ.から、中之郷の妙縁寺などはね、あれは要法寺の末寺ですからね。安政年間に裁判になって、そして大石寺の末寺になっちやつた。

 ○ 日量上人は弘化あたりですが、これで明治までは、変ったことはないですか。
千葉の法難と八戸の法難はいかがですか。

【堀上人】 八戸の法難はですね。大したことはなかったですね。法難の範囲がごくせまいですからね。干葉の法難というのは。大石寺に関係ない。これは存外大きかったですね。

 ○ 弘化度の法難というのは、

【堀上人】 弘化度の法難というのは、下條の身延の日朝のこしらえた小さな寺があるその問題でしよ。

 【財政の窮乏と再建】

 ○ 明治に入りましたころは、お山では何代だったんですか。

【堀上人】 明治のはじめはですね。日胤上人だったですね。日胤上人が日布上人を後住にきめた。これは、ちよっと乱暴でしたがね。日胤上人という人は気の荒い人でね。武芸もよくできた。ですから寺中の反対なんかなんでもない。とうとう無理やりに日布上人を静岡に呼んで御相承した。そのまた、日布上人と、いう人は、おだやかな人でね。ほとんど、生きているか、死んでいるかわからんような、穏健な人でしてね。    

 ○さきほど、お話しなさった……

【堀上人】 ええ、

 ○ その日布上人の次が日霑上人……

【堀上人】 霑師はですね。本山にはいないで殆んど地方を歩かれた。常陸阿闍梨というのを、飛脚阿闍梨なんて、自分で名前をつけてね。それがもとになって、金澤の寺ができたり、尾張の三ケ寺ができたり、それから九州の霑妙寺ができたりした。日霑上人の飛脚の働きです。

 そのころ久成坊に長谷川という現代向きの世才家があってね。すっかり、人のよい日布上人をごまかしてしまった。自分の家などはね、文化式というかほとんど旅館同然にこしらえたんですよ。中に廊下をはさんでね。南北にずっと客室をこしらえて。

 便所なんかでも立派なもんでしたよ。そんなことには才があった。ところがひどいことには五重の塔の銅がわらをごまかしてもうけたわけです。このごろトタンという珍しいカネができましたから、そのカネでもって作るというと、萬代むきで、銅がねのように錆びはしませんから、トタンに五重塔をふきかえた方がいいですなんて貫主さんに言った。

貫主さんは何にも知らん人でそうか、そんなものができたのか、じや、よろしく頼むなどといって、銅を高く買つてちやつて、トタンぶきにしてしまった。そういうバカなことをやっている。そして、それを塗ればよいのに塗らないでおいたでしょう。

そのトタンが錆びて、そこから漏るようになってしまって、それで仕様がなくて、日応上人時代にですね、そのトタンをはいで、かわらにしてしまった。それが充分でないから先年、学会の厄介になって修理した。

 まあ、とにかくそういう世才家があつてとても、派手な騒ぎをやったらしかったですね。酒樽をそこら中、並べてですね。飲み次第、食い次第で、さかんなことをやつたらしいですよ。それで、とうとうね、借金ができてしまった。その借金の返済ができなくて、大宮あたりでは大石寺だというと、もう、■一升もかさないということになってしまった。

それで明治十五年の護法会議ということがおこって、全國からですね、僧俗混合の議員がでてきて、財政のやりくりを相談した。寺の名前でもって公債をこしらえて、全國に分配して負債の一分を償却したけれども、全般の返済はできない。利子さえも本山で拂えなかつた。又そのとき新しく月給制度にしてしまって寺中でも何でも月給にして、所化まで月給制度にしてしまつた。それやこれやで會計のやりくりができない。借金は返せないし利子もはらえなくなった。

 こんな時にわしの師匠が第三度目の住職になったです。三回以上やったのは始めてですよ。二回住職複住職はありましたけれどもね。三度本山の貫首になった人はないです。それで師匠が住職になったから、今度は末寺の人がですね、そういうふうに本山が苦しければ、この支払債書は本山にあげますといって、わしの師匠にどんどんもつてきた。

それで償却ができたです。そんな悲況な時代があったのですから内政の方からいってですね、寺中が少し多すぎて半分にしようなどという計■さえできた。というのは屋根のふき返しさえできなかったのです。

わしが明治二十一年に登山したときでさえも、寺中の住職の缺員が三四坊あったですね、住職が、もう、ありあまって多くなったのは明治三十年以後ですね。その前は、ほとんど無住でぶつこわれて、どうしようもない坊がたくさんあったです。


【明治初期の法論】

 ○ 廃仏毀釈なんかの影響も大分ありますね。

【堀上人】 ええ、ありますね。大宮浅間をひかえていますから、あの浅間の手合いが悪気でもってね、寺をいじめたのです。そして又平田篤胤の門下のやつが伊豆から駿河、そこら中にいたですね。そんなのが、いろいろな、事のあるたぴに、寺いじめをやったですから。

 ○ あの大宮浅間は熱原法難のときでてくるのと同しですか。

【堀上人】 ええ、あれですよ。あれですが熱原の分社の方でやった事件ですね。

 ○ ああ、そうですか。

【堀上人】 浅間神社のすべての経費は富士から伊豆にかけての人がもったですね。ですから、ほとんど官用でもって材木とか大工とか、もってきたんです。御書なんかにときどきありますね。大官浅間の造営云云などと……あれは地方の人が負担した。

 ○ 北山との問答が明治十二年にあったわけですね。         

【堀上人】 ええ、そうです。

 ○ あれは、結局、日志が死んじやったから、終ったようなものですね。

【堀上人】 そうです。日志の議論が存外すばしっこい議論ですけれどもね、大体、アラ拾いの議論でね。大石寺のアラの、賓冊みたいなものに下らんこと書いてある。それからまたですね、文献のあるのにもかかわらず、あの時代にいろいろありがたい話をつくって傳染した。そんなものをとって議論をふきかけたんですからね。それだから、日志の議論は、今は、わしどものような研究家からみるというと、なんでもないバカバカしい議論です。もっと、日志が立派な頭をもっていれば、本当に大石寺と相談してですね。話しあいができたでしようけれども。日志はそういうくだらないことをやるために要法寺から迎えられたんですから。あまり大石寺が繁昌して、自分の寺が衰微するばかりですから。その復■策にもってきたんですから、何かその大石寺をいじめなければという考えしかなかった。
日志が悪いですね。ですから、コレラかなんかにかかって死んじやった。ポックリいっちやった。

 ○ やっぱり法罰でしようか。

【堀上人】 ええ、そんな人が、まだニ、三あるですよ。要法寺のえらい人だったが高田の法蓮寺で、石油かぷって焼け死んだのがある。大石上人に、いろんな、あることないこと、つつかかってきて、喧嘩ふきかけてきた人です。

 ○ 横濱問答も、このころですね。明治十五年か。

【堀上人】 横濱問答も、はじめの間題にはわしの師匠が筆をとられたです。それから後は、その時分の学僧であった住職の山口信玉という人と、それがら藤本智境という人が筆をとった。最後の方はね。

 ○ あれも、田中智学がどっかへ逃げちやったから終ったようなもので。

【堀上人】 ええ、田中は弱っちやったです田中という人は少年時代から改革家であってね。師匠の新井日薩あたりの手におえない少年だったですね。それで、いろいろな宗内の事情をみるにみかねて、改革しようという考えをおこし、その始めに大石寺とぶつかったので.す。ですから、田中の方じや、それが、もとになってね。田中は発奮して、いろいろな改革を始めたですね。

 ○ 大石寺に破折されたことが勉強になったですね。

【堀上人】 ええ、薬になったですね。それと同しような事件が、清水梁山におこったですね。あの人は策士ですから、あんなのが大石寺へはいっていたら大変なことになったろう。

 【最近の動向】

 ○ 明治三十三年ですか。大石寺が独立して日蓮宗富士派と公稱したのは。

【堀上人】 ええ、そうです。

 ○ これはもう、やむをえず合体したようなものだったのですね。始めから。

【堀上人】 興門派というのはね。名称にはさしつかえない。興門ですから……。けれども、興門派に連合するということはね、富士八山の中で要法寺が中心になってやった仕事です。ですから、興門■規というのはですね、できたのは要法寺流で、できちやったです。

 ○ 八つといいますと、富士大石寺と、北山水門寺、西山本門寺、下條妙蓮寺、小泉久遠寺、保田妙末寺と京都要法寺、あと一つは。

【堀上人】 伊豆に実成寺というのがある。

 ○ ははあ。

【堀上人】 今、その中でですね。実成寺がダメなようですげれどもね。あとは大石寺に合同するつもりで、ともかく、一応ですね。単立の一寺になっているですね。あと、そのうちに手続きをとるでしょう、正式に。

 ○ こういうふうにして、まず明治の始めに無理して統合して、それが次第に、もともとのようにばらばらになって、それがまた、太平洋戦争中に、無理して身延なんかに統合して、それがまた今度は本当の意味で富士日興上人の正統にもどろうという傾向にあるわけですね。

【堀上人】 北山なんか、すっかりダメになってしまったらしいですよ。北山が一とう大きいですからな。わしどもの知ったやつもいなくなった。そんな、身延に合同するなんてこういう、そんな頭でない立派なやつが元はいたですがね。それが死んじやった。今は、どうも、そういうのがいないらしい。西山はまあ、行く機会もありますから。やっぱり、自然そのうちには独立するでしょう。日向も同じ動きですね。

 ○ なおまだおうかがいしたい問題はたくさんありますけれども、今日はこの位にして終らせていただきます。最近では創価学会の会員だけでも四十数万世帯と、大きくふべれあがってきています。明治の初期の悲況時代や、今日はまだお話にでませんでしたけれども、戦争中や終戦直後の時代からみたら、全く隔世の感だと存します。

 ○ どうも長い時間、ありがとうございました。

【三大秘法に對する各派の考え方】

【小平】 それでは次に三大秘法について、どうでしようか。 三大秘法というお言葉はいろいろな御書にございますね、

【猊下】ええ、そうそう。

【小平】 そのことは門下でも全部知っていた……。

【猊下】ええゝ。

【小平】ただその内容を知らなかったわけですね。

【猊下】そうですね、三大秘法を因果国の三妙に分配するということはですね、殆んど日蓮宗としては、どの宗門だっていっている。本因妙、本果妙、本国土妙。ですから、本因妙の題目、水墨妙の佛、本国土妙の戒壇、これは決まっている。決まっていますけれども、本因妙の本因がきまらない。本果妙は大概きまっておる。本国土妙の戒壇がきまらない。五、六年前から本山の研究科で三大秘法の解釈をやっておりますがね、やっておりますけれども、何からやっていいかということを考えましてですね。私のものは歴史的な三大秘法ですからこう考える。歴史的にみると題目の歴史は、至って単純です。それから題目の本果妙の釈尊の佛の変■も大したことじやない。戒壇というのは、事実ですからね、一ばん、こりゃ、うるさい。だから戒壇から始めた。戒壇から始まったけれども、迹門の戒壇で一先ず、仕切ってね。本門の戒壇にまだ入らないです。ちよっと本門の戒壇をやりましたけれども、ほんのまだ緒論だけです。
 問題は本門の戒壇が大問題です。もっとも、御本尊もそうですけれども……。というのは、戒壇ということは殆んどですね、実際に、よその宗では問題にしていないのですからね。たゞ綱要日導が、戒壇というのは「時を待つべきのみ」という文から、時を待たねばできないといっている。あの人の綱要にそれを明示してある。綱要日導以前は、あまり戒壇ということはいわなかったらしいね。
 お題目を心中に唱えるということが戒躰受戒だということを考えておる。殆んど戒壇ということはなかった。

【小平】 綱要日導は一致派ですか。

【猊下】 ええ。

【小平】 それで、徳川末期?

【猊下】 ええ、末期。

【小平】 それが、その「戒壇は時を待つ」というのですが、大体は、どんな考えでいったんですか。

【猊下】それはですね、綱要日導以前に戒壇ということをいった人が、健抄ね、御書の健抄ね、あの人の説明に戒壇説がある。

【小平】 どこの人ですか。

【猊下】 主に関東の各檀林に先生としていた人ですわ。宗派は一致です。それから、先だって寫眞をとっていただいたがね、日統という人がいました、それも、関東の檀林の先生です。その人が、富士の戒壇をいっている。それくらいのものです。彼は富士には既にこの戒壇があるといっていて、こっちの方にも、こしらえなければならんということはいってない。ただ富士に戒壇があるといっただけですね。それから健抄の日健も富士に戒壇があるということをいってですね、これは富士に戒壇があるばかりでなくて、こっちにも戒壇を建てなけりゃならんということはいっている。それから一致派の中山から身延、京都の各本山も戒壇というものは、お題目を唱える心中が戒壇だといっているだけです。

【辻】 室住なんか、そんなこといっていたね。

【猊下】ええ、それが一般でしょう。今でも、やっぱり、それだよ。身延の戒壇を、いったのは、この頃ですよ。

【龍】 身延では前には戒壇ということをいわなかった?

【猊下】そう、いったのは二十年前ごろからですか。(笑声)
 そりゃ、戒壇をやかましくいったのは田中智學です。それは富士戒壇説だ。

【小平】 身延では、どう考えて……。

【猊下】 宝塔品のね、是名持戒じゃ。あれが、まあ戒壇になっている。戒壇はつまりお題目を唱えるところはどこでも戒壇だ。そんな■つくるしい、一地方に限るなんて
いうことはない。信心をすれば、その信心の道揚が戒壇だと、そういう。ですから、建物からいうとですね、信心の道場が戒壇であり、肉体からいうと、お題目を唱える舌の上が戒壇だという。






【堀上人に富士宗門史を聞く】3


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